神野新田 紀徳之碑

 ・牟呂用水の最終樋門の横に立つ

 ・碑は、高さ13尺、幅5尺3寸、厚さ7寸、重量約1千貫の仙台石

 ・台石は、高さ4尺、幅11尺、奥行き6尺、重量約3千2百貫、伊勢の二見浦から運んだ鳥羽石


明治29年(1896)4月15日、神野新田成工式及び紀徳碑建設式挙行


紀徳之碑建設式当時と現在のストリートビュー




神野新田成工式と 神野新田紀徳之碑建設式

 

 神野新田成工式と神野新田紀徳之碑建設式は、明治29年4月15日に神富神明社の前で、農商務大臣榎本武揚、品川彌二郎、田中芳男、愛知県知事 (代理)、豊橋第十八連隊長など約2,000人が参列して行われた。祝辞は、榎本武揚農商務大臣、品川彌二郎、愛知県知事 (代理)、松井譲渥美郡長、青山朗陸軍少将、古橋源六郎三河農会長、宝飯郡長 (代理)、市川信順東加茂郡長、移住小作人総代


都筑兼助、高須新一郎ほか2名、その他来賓20名余りが述べた。このほか、大谷派本願寺本山から清酒一樽の寄贈、開拓当時の愛知県知事であった勝間田稔宮城県知事、および当時の愛知県土木課長であった岩本賞壽からの祝電の披露もあった、という。つづいて圓龍寺で宴会があった。

 15・16の両日、牟呂村の有志は、花火打上げ、芝居、角力、獅子舞などを催し、近村よりの来会者で時ならぬ賑わいをみせた。

 17日には、牟呂・磯辺・大崎などの寺院の僧侶数十名を請じて、新田工事のため犠牲となった魚類その他の生物の供養を圓龍寺で営んだ。供養が終わると、読経しつつ大堤防を巡行して、33体の護岸観音像を礼拝し、村民も加わった唱名念仏の声は、波の音と相和して、春の海ののどけさをひとしお加えた、と伝えている。