・長生病院の場所は現在の農協の場所に大正12年に開院し昭和13年に移転改築した。
・右下の地図が昭和13年の地図(牟呂中学校が水産試験場)
1.所 在 地 渥美郡牟呂吉田村大字牟呂
2.開設 年 月 大正十二年三月二日
3.成立の沿革
神野新田は牟呂海岸の一角を埋め立てて作られたもので、その耕作に従事する農夫は本村と余程隔離した地の部落に居住しており、移住者は漸次増加して戸数三百を数えるまでになった。
そのため本村に僅か一名の出張医師しか居ない時代に於て、専属の診療機関を要望したのは当然のことであった。
大正十二年三月、主として新田居住者を組合員として長生病院を設立し、豊橋市河合病院長の河合清氏を名誉院長に迎き、常時本村に出張診療に従事する中村道三氏と外一名を医局員として診療を開始し、診療報酬その他一切は郡医師会の規定を遵守することにより、最近問題化しつつある利用組合病院とは全くその性質を異にするものである。
それから四、五年経過すると不幸にも経営悪化が顕著になり河合氏と中村氏共に退き、医局員一名でかろうじて組合経営の下に診療を継続するも、いよいよ財政困難に陥いった。
遂には昭和三年七月に事実上組合経営を廃止し前記の中村氏と協議の上、組合員には特別便宜を計るとの条件の下に建物器械等一切を中村氏に無償貸与して業務の継続し、今日に至ってる。
しかし名義は今も組合立の長生病院であるが、事実は中村氏個人経営の一出張診療所(中村氏は豊橋市に開業して午後のみ同院に出張する)に過きず、そのため同医師会に於いては長生病院とは認めず、中村氏を出張会員として取り扱いつつあり。
4.定款または規程
以上の実況であるため定款規程等なし。
5.その他参考事項
牟呂吉田方の戸数は約二千二百であるが、その中の五百戸は豊橋市に連接しており、豊橋医師の診療区域に属しているので、所在地の医師が取り扱う戸数は千七百戸位である。
そして目下地元に住んでいる医師は一名だけで、他は前記の中村氏および最近豊橋市より出張開業した者の一名がいる。
少数の同業者であり医師の間でもめごとが心配されるが、もめごとのうわさは聴かない。
しかし上述したように全く病院取締規則を無視している長生病院なのか。
名義は現存し、個人出張医師が病院の名によって、特に組合員には一種の便宜を図る(診療費低減の黙契あることは確実ではない)との条件の下に従業することは、今後は何らかの問題を起す恐れもあるので、同会においても今後充分に監視を怠らないようにする必要がある。
引用元
タイトル 医政調査資料. 第7輯 産業組合立診療機関ニ関スル資料
著者 日本医師会 神野新田信用購買利用組合長生病院 41~42頁
出版者 日本医師会 書籍へのリンク
出版年月日 昭和7年 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1051970/24 コマ24/182