▶ 神野新田開拓百年記念誌より
神野新田成工式と 神野新田紀徳之碑建設式
神野新田成工式と神野新田紀徳之碑建設式は、明治29年4月15日に神富神明社の前で、農商務大臣榎本武揚、品川彌二郎、田中芳男、愛知県知事 (代理)、豊橋第十八連隊長など約2,000人が参列して行われた。祝辞は、榎本武揚農商務大臣、品川彌二郎、愛知県知事 (代理)、松井譲渥美郡長、青山朗陸軍少将、古橋源六郎三河農会長、宝飯郡長 (代理)、市川信順東加茂郡長、移住小作人総代、都筑兼助、高須新一郎ほか2名、その他来賓20名余りが述べた。
このほか、大谷派本願寺本山から清酒一樽の寄贈、開拓当時の愛知県知事であった勝間田稔宮城県知事、および当時の愛知県土木課長であった岩本賞壽からの祝電の披露もあった、という。つづいて圓龍寺で宴会があった。
15・16の両日、牟呂村の有志は、花火打上げ、芝居、角力、獅子舞などを催し、近村よりの来会者で時ならぬ賑わいをみせた。
17日には、牟呂・磯辺・大崎などの寺院の僧侶数十名を請じて、新田工事のため犠牲となった魚類その他の生物の供養を圓龍寺で営んだ。供養が終わると、読経しつつ大堤防を巡行して、33体の護岸観音像を礼拝し、村民も加わった唱名念仏の声は、波の音と相和して、春の海ののどけさをひとしお加えた、と伝えている。
神野新田成功の原因の一つ
毛利新田が遂に破堤潰滅したのに引きかえ、神野新田が成功した理由は、神野新田に関する既刊文献によって推定できよう。すなわち、初代神野金之助の献身的な努力、服部長七の人造石技術の採用と、その縦横の智略・工夫・努力、神野金平および富田重助をはじめ神野・富田両家の総力を挙げた協力、毛利新田の失敗の教訓、工事中に甚だしい天災のなかった幸運、等が考えられる。
運の悪いことに成功しなかった毛利新田とて、資金こそ毛利祥久を頭取とする第百十国立銀行の出資であったが、愛知県土木課が直接に設計・監督する官営直轄工事と同様であり、その施工技術が当時の水準より劣ったことは考えられない。しかも三度におよぶ澪止め失敗や明治22年9月11日に破堤・浸水して多数の行方不明者を出した痛恨の経験をふまえて、一度は完成したのである。そのときは、充分の強度を信じて疑わなかったであろうし、より破壊的な波涛の襲来は、予測できなかったのであろう。また、濃尾地震による被害の充分な補修を怠ったことも、のちの破堤を招いた原因の一つであろうと思われる。
これに対し、木曽川の水害が多発した海西郡江西村に育った神野金平、金之助父子の洪水の破壊力に対する認識はより深いものがあり、強い責任感と相まって、堤防の強度維持に対しては、極めて強い執念を持っていた。木曽川に接する江西村の一帯は、低湿の地帯が多く、多雨等のため河川の氾濫に伴う水害が少なくなかった。このために、近隣の農民が共同して、洪水の災害から集落と耕地を護るために周囲に堤防を巡らして、独得の共同防衛体制を案出したのである。これが「輪中」である。七代金平の祖父五代金平の時から世襲的に江西村の庄屋をつとめた神野家の人々が、堤防の強度維持に、特に強い関心を持ちまた、これに関する豊富な知識と経験を持っていたであろうことは充分推定できることである。
神野金平・金之助父子のこうした経験に加えて、生来、責任感の強い金之助はたんなる出資者の域を越え、あたかも自ら技師長兼監督であるかの如く精励した。また、金平は、堤防完成後も、新田を訪れたときは、まず災害対策準備を検分し、もし不充分の時は、厳重注意したという。
こうした経験、知識、熱意、責任感等においても、毛利新田の場合との差は、否定できない、毛利祥久をはじめとして、これだけの大事業の計画者達に身を挺してこの困難な事業の完遂を計ろうとするだけの決意がなく、不撓不屈の精神をもって最後まで敢闘するだけの熱意欠如していた、といわれるゆえんである。
▶ 成工式招待招待者
▶ 長坂理一郎の豊橋「昔はなし」から、毛利新田工事に対する毛利氏側の意識
長坂理一郎は次のように述べいる。
神野新田ができる前に、毛利新田があったことは一般にはあまり知られていませんね。
毛利新田がどういう目的でつくられたかは知りませんが、牟呂の海を埋めて毛利新田をつくるために集ってきた人はすべて長州の人でした。
その費用なども、私にはわからないが廃藩による士族たちが、金をもちよってのことと開いています。この新田開拓の事業の事務のやり方というのが、事業というより、お祭気分でした。
毛利側がお祭り気分だった理由を推測。
愛知県庁は「牟呂沖に新たな新田が欲しい」、「賀茂用水の補助金を確保したい」が金がない。そこで愛知県知事が融資先が無くて困っていた同郷の第百国立銀行頭取の毛利氏に利殖のため、愛知県庁が開拓工事を全面的にバックアップすることを条件に、新田開拓を県庁主体で実施した。(ウインウインの関係)
毛利側とすれば、困難な作業は愛知県が県庁直轄工事と同等扱いでやってくれ、メイン工事は比較的順調だったため、高みの見物状態だったので、お気楽状態は納得できる。
式典と宴会の場所の補足説明
成工式と紀徳碑建設式は明治29年4月15日に、式場を当新田内の牟呂神富神明社の社前で実施し、続いて「円龍寺での宴会に移った」とあり、写真には「小学校から左の会場の神社を見ている」とあります。
神富神明社は明治28年2月、小学校は今の公民館あたりで明治29年に開校したので、神社の木も小さく小学校からは式典がまるみえだったのでしょう。
ただ、「宴会は圓龍寺で」とありますが、圓龍寺は明治29年 8月31日、伏見の圓龍寺の移転許可が出ているので、成工式の時点では、現在の圓龍寺の場所には本堂はありませんが、現在の位置に寺を作ることは早くから決めていましたので、現在の庫裏の所には圓龍寺の前身の説教所の建物があったようです。