明治33年の記事
明治37年に初代神野金之助が発行した「神野新田紀事」は毛利新田から始まり神野新田の開拓と発展に付いて詳しく書かれている。 それに先立つ4年前の明治33年に発行された神野新田に付いて簡潔に纏めた書籍を発見した。 

▶ 地図


▶ 神野新田開墾事蹟の現代語化(言い回しは古いです)

牟呂村(豊橋より南へ約一里)にあり、渥美湾の殆ど東北に盡る所にありて西は斜めに宝飯郡の大島佛島等に対す、此海面埋め立ての目論見は実に明治16年に其端を開き、後ち勝間田前知事在任の頃山口県人毛利祥久なる者莫大の資金を投じて大新田の築立に着手し漸く竣工するや、明治二十二年の大海嘯の為に此大新田は脆くも破壊せられて再び海面となり、僅かに其堤防の幾分を海中に存留するに止まり数十万円の投資と苦労は全く水泡に帰せしが、名古屋の富豪神野金之助は此地豊川流末の加工に近くして所謂(いわゆる)夫(それ)の河成沖積層に属する壌土豊政の地たるべきを察し、其亡所を毛利氏より買受て大いに工事を起し人造石を以て長さ数千間に渉る大堤防を築き立て耕地反別を得ること実に一千有五十町歩に及び、明治二十八年七月を以て全く其工事を竣せり、爾来既に六年の星霜を経るも此新田は豪も(一度も)風浪の害を被ることなく此石堤は益々堅固となり恰も海堡(海上の要塞)の如く万世不刊(いつまでも滅びない)の大業を完成して目下殆ど一万石に達する米穀の収穫を見んとし、将来尚ほ此新田は二万石の収穫米を得べき望あり、近頃は図中に記すが如く南方一廊内に一部分に広大なる塩田を開きて着々製塩の事業を開き其他は農耕及び開墾地として道路用水路等亦整然として恰も碁盤割の如く且つ此新田内には神社寺院学校等を新設して教育と礼拝の用に供し住民は日を逐ふて益々多くの近世に於いて実に比類なき好成績を挙げたるものにて此神野氏の手に帰したる後工事竣工及び其他の設備には三十万円を投じたるなるべしと言う。


▶ 牟呂用水

此用水は豊川筋より分派するものにて其分派の箇所は全く八名郡に属するも牟呂用水の名あり、其灌漑の大目的が本郡牟呂村神野新田にあるが故なり、今茲に其開墾の事蹟を掲げんに、去る明治二十年一月八名郡の長部村字八名井より一派の用水を開きて豊川の水を導き同郡加茂村に達し灌漑の用に供せしが(当時可も用水と称す)、其後此牟呂新田開墾の工事を起こすや、此用水路を本部に延長せすることとなり、其水路は加茂村より牛川村に至り、豊橋町の東より更に南に迂回して鉄道線路を横切り牟呂村に達する、茲に於いて牟呂村に開かれたる大新田は十分に灌漑水を得るに至りしが、其後同新田は不幸にも水災の為めに破壊せられ此用水路一時は不用に帰せんとせしも、神野新田の再び竣工するに際し神野氏は此用水路にも亦大いに改良工事を加へて水量を多く此方面に引用することとなし、長部村大字一鍬田の閘門は特に人造石を以て非常に堅固に築造し此閘門より本部牟呂村に及ぶ間に木材等を(流材として)運送するの便を開き、尚ほ此水力を利用する豊橋電気灯会社等の創立を見るに至り、灌漑反別今は実に千数百町歩に達する形勢にて、西三河の明治用水に次ぐべき大用水となれり。


▶ 神富殖産の資料

 ・明治30年から塩田開発を開始し、瀬戸内海への視察や技術者を招いたりした

 ・採算が取れず、明治35年に塩田事業はあきらめ、他畑に転換した