藤城藤一さんの回想(神野新田開拓百年記念誌より)

5つの話がユーチューブで音声と字幕で見る事ができます


羽根井小学校

海苔の話し

13号台風

新田の魚

個別



   羽根井小学校で、四年の生徒に話したこと

 

 1.一番つらかったことは?と聞かれ、私があんたたちと同じ四年生の時のこと。兄弟が11人もあった。小さい子を家に

   置いては、お母さんが働きに行けないので、2才の妹を背負い、4才の弟の手を引いて、学校へ行った。2才の妹が

   オシッコを洩らしたので、小使さんに、オシッコをもらす子供を連れて来ては困る”って怒られたときはつらかった。

 

 2.お母さんは、師団兵舎の建設現場へ働きに行っていた。2才の妹に乳を飲ませるため、その子を背負い、4才の弟の

   手を引いて、片道2、3キロメートルを歩いた」「家で食べるお米、大麦、黍、粟、などを弟とついた。もっと力を

   出せ”って弟の頭を小突いた時、ちょうどお父さんが帰ってきて、弟を泣かすナ。お前一人でつけ!”四年生の私1人

   ではヤグラが上りゃせん。

 

 3.食べ物の質問には、学校給食のような立派なものではなく、大部分が麦でお米は少しだけのご飯に醤油をかけて頂

   いた。梅干とか生姜漬があればいい方だった、と話したら、そんなの食べられるか...

 

 4.小学校4年は、中西こいと、という女の先生だった。アカギレが大きく開いた私の手足を見て、こんなに働いて、と

   涙を流した。なぜそんなに働いたかというと、その頃、夕食後毎晩のように私の家へ10人も15人も集って、天伯や

   三方原や北海道へ引越しの相談をしていた。それを聞いて、お母さんにこれから私が一生懸命働くから、引越すのは

   やめて!と頼んだ。そんな訳で、私なりに真剣だった。

 

 5.マキや炭が買えないので、藁でご飯やおかずを煮焚きした。冬の夜、西風が強く吹いた翌朝早く、松葉を集めて焚い

   た。枯れた葦も燃やした。お正月前に、石巻から雑木の薪を売りに来た。買ったお正月は何よりの安楽だった。買え

   ないお正月は、実に寂しかった。


   海苔の話し

  1.海苔の養殖採取は、豊川および柳生川河口の六条潟で明治31年以来本格的に行なわれ、神野新田農民の副業としても

   極めて重要で、「大正時代から昭和35年頃までの50年間が最盛期だった。三郷五郷の各家庭の収入の40%以上になっ

   た。お坊さんとお巡りさん以外は皆んな海へ出かけた。木曽川、知多、矢作川方面からタネつけに来た。向うの人は、

   ノリがよくついて、まるで黒い牛が寝ているみたいだ、と喜んでいた。

 

 2.拾い海苔―「冬の夜、汐が引いて露出したノリソダに西風が猛烈に吹くと、氷ったノリが海に落ちる。たくさんとれた

   。海苔に混じった海草をとるのは重労働だった」 「2番の観音様から5番の観音様までの約500mの堤防沿いの捨石に、

   寒い時コブノリがついた。朝食のミソ汁に入れると天下一品の味だった。


   昭和28年13号台風について

 1.二回は、沖ノ島に終戦後新しく作った樋門がやられた。二回は総面積206町歩、三郷は673町歩、3分の1もなかったの

   で浸水が早かった。河合陸郎さんも寝ていたら水が来ちゃったと言ってみえた。三郷の浸水は遅かったが、2日後には

   道路もわからないほどになった。4~5日したら、稲の上を舟が走った。やっぱりゼロメートル地帯だったと思った。

 

 2.堤防の上にノリソダが置いてあり、歩きにくかった。月明りで堤防の根石が見えていたくらいで、まだ深くえぐられて

   はいなかった。一昼夜は水が来ない”と言われていた。物置の米や麦を2階へ、タンスも2階へ、タタミも積み、運送車

   へ積めるものは積んだ。オヤジは組合へでかけた。

 

 3.米は全然とれなんだ。当時は早稲ではなく、穂が傾いた頃で、トリのエサにもならなかった。供出は全然出来ず、逆に

   新潟や富山の米を1戸当り2俵ずつ貰った。冬中、牟呂用水の水を流したら、翌年にはすばらしい米がとれた。害虫も出

   ず、よい成績だった。

 

 4.養魚の人に聞いたが、養魚池の魚は、一度は逃げてもハラが減ってくると、元の池へ戻ってきた。60%くらいは戻った

   という。


   新田の魚の話し

 1.以前、神野新田一帯は魚の宝庫で、ボラ、セイゴ、ウナギ、コイ、フナ、ドジョウ、ナマズ、モロコ、ハゼ、メダカ

   ・・・魚でいっぱいだった。樋門が開いている間に二十間川にイナダ、タイ、セイゴ、ウナギ、ハゼ等が上り、冬の

   夜明け、凍えて動けなくなっているタイを20~30分で40~50匹も拾った。

 

 2.小さな川でも網でチョット椈えばフナの5~6匹はいた。用排水路や田の低い所にもフナがいっぱいで、水が乾くと死

   んだフナで足の踏場もなかった。ドジョウの4~5キロは1時間でとれた。ウナギも太いのがとれた。夢のようだ。今は

   ドジョウも一匹もいない。


   個別

  1.小学校の頃、ワラをたたき縄をなって俵を編んだ。1枚2厘、10枚で2銭。お正月前には手車へ藁を沢山積んで、朝2時

   に起き、豊川の橋を渡り牛久保まで、桑の肥料に売りに行った。買い手のない時は、子供でも泣けそうだった。時には

   、更に1里くらい先まで 運べば買うと言われたこともあった。

 

 2.よくも生えたヨ この田の草は お暑うございます(拍子) どこがウナやら ようわかやせぬ よう取ります(拍子) 

   お母さんの歌った田の草取りの歌は今でも覚えとる。小学校3年頃から、学校が終ると飛んでいって手伝った。歌でも

   歌わにゃ、えらくてのん...

 

 3.天然川にはモク(藻)が一面に繁殖し、田の草とりの終る頃から、若者は一せいに小舟でとりに行った。岸に山がたくさ

   んできた。牛で運んだ。よい肥料になった。

 

 4.新田の野菜は、害虫も少く、実によくとれた、スイカ、キナウリ、マクワウリ、クロウリ、大根、ニンジン、ゴボウ、

   サツマイモ、ジャガイモ、冬瓜、マメ類。この地方は養蚕の全盛時代で桑畑が多く、新田でとれた野菜は値良く売れ

   た。

 

 5.六条潟のあさり採取。古く室町時代から採取の記録がある。「13才の 頃、石垣の目塗りの仕事に行ったとき、昼休み

   にアサリを採ったが、 30分足らずで2~3升も採れた。真水と塩水の混じるあたりは、シジミ、ハマグリ、チンミ、ニ

   シ、ウンメなどの貝がたくさん取れた。神野花子さんも疎開中は、1号樋門と2号樋門のあたりに隣の人と乳母車でシジ

   ミをとりにこられ、 後々まで美味しかったと懐かしんでみえたヨ。

 

 6.馬糞は、月に3回くらい、手車で父母と共に騎兵19・25・26連隊、輜重15大隊、野砲21連隊などへ貰いに行った。

   競争だった。重労働だった。道が氷っている日はガラガラとよく聞こえた。