・左の写真と文章は牟呂史476~468ページから(右の写真は書籍「神野新田」から)
・文章から設立当時の保育園は圓龍寺に有ったようだが、下の写真は神富神明社の舞台前
・昭和26年生まれの私は、写真の神明社から現在の保育園の場所に移動した世代です
三郷保育園
昭和25年(1950)9月、豊橋市神野新田町に円龍寺の住職宮部正氏を園長とし、私立の三郷保育園が設立された。
設立当時に、実際の園の運営にあたっていたのは、八町小学校から招かれ て着任した森下先生と若い中村先生だけであった。初年度の入園式は9月25日に行われたため、第1回目の卒園生が出るまでに半年ぐらいしかなかった。そのため、最初の年長児たちには、平仮名で名前を書かせ、漢字で書かれた自分の名前を分からせる程度のことしかできなかった。もちろん、歌や踊りや絵も自由にやらせたりしたが、きっちりとした指導はなかなかできなかった。と、当時を振り返って森下あや子先生は言っておられる。また、設立当時の苦労話として、次のような事も語っておられる。
「それまで自由気ままに遊んでいた子どもたちだったので、いくら自由な雰囲気な園生活だとは言え、やはり初めは戸惑いました。おまけに、私自身がそれまで小学校の一年生の指導を多くやってきたので、そのつもりで指導することが多く、ちょっと厳しかったかもしれません。そのため、お寺の門の十五だけぐらいのすき間から逃げていく子もいたりしました。」
「はぐくみ会」での研修
森下さんは、三郷保育園の設立に大きく貢献し、また、保育園を軌道にのせるために保育のことを様々なところで学んだ。その一つが、豊橋市内の幼稚園や保育園の保母さんたちの集まりである「はぐくみ会」であった。三郷の保育園だけでなく、どの保育園でも保育内容が定まっていなかったため、そのひながたを作る必要があった。このような場所での研修によって、森下さんたちは三郷保育園の基礎を築いていった。
母の会のがんばり
三郷保育園は、森下さんはじめ、保育園の関係者の努力によって徐々に軌道にのるようになっていった。しかしそ の陰には、母の会の力も大きく働いていた。いくらかの保育料を徴収はしていたが、それだけではもちろん園の運営 は苦しいものであった。そんな時、自分の家でとれた米や農作物を保育園に差し入れ、保育園の運営をかなり助けた。 昭和27年の新聞に「園児に病む子なし」という記事が出ている。それによると、母の会が菜種油を毎月各戸1合、 卵2個、1年分として小麦粉1斗を持ちより子どもたちの 給食にあて完全給食を行ったこと、三郷地区がピアノを1台寄付することとなった時に、母の会では、各戸から残ったわらを集めこれを売って子ども用楽器を購入して園に贈ったことなどが書かれている。
このようにして、三郷保育園は、その関係者の方々や、母の会の力によって順調に軌道にのりだしていった。