桝形(牟呂港)
神野新田ができる前は田原や伊勢とは市場の港が使われていました。 神野新田ができたことにより柳生川運河の河口が港となり、桝形として整備されて牟呂港となりました。

 ・神野新田では柳生川の河口を桝形として牟呂港とし、大型船も利用できるようになりました

 ・桝形から市場港までは浚渫されたため、大きな船も市場港までは入れるようになった

 ・神野新田紀事では右側堤防(1と2号堤防)に砂礫を巻いて道を整備したとある


▶ 神野新田紀事の桝形の原資と現代語化

現代語化(神野新田開拓百周年記念誌より引用)

 

「第三十四章 牟呂港の前途多望

当新田の位置は深く、三河湾の極めて奥にあって背後に豊橋町がひかえて いるため、この地を開いて船舶の停泊の便利が良くなれば旅客往復の 一大基地になる。

そのため牟呂用水の柳生川と合わせて一つとし、海に達する所の延長約八百間の所を広くして、浚渫し修理をして船舶が柳生川まで遡れるようにした。

またその港口を一層広く方形に修築し、和船はもち論、汽船とも安全に停泊 できるように改善し、ここの所を称して桝形と呼んだ。

以後は海運業者の着眼する所となり、当港より田原に達する定期航路、及び伊勢国神社港へ達する定期航海等が開始され、風帆船と汽船との別なく、帆柱を連ねて港内に停泊するようになり遠くの各郡からも参宮の参詣者、 及び商品などの往来集散が非常に盛んな川筋となった。

さらに陸路海に達する便利を得るために、右川筋に沿って港口に至る第一号と第二号堤防の上に砂礫を設布して通り道に充て、また港頭の繁栄を計るため桝形内に家屋、及び倉庫を建築した。

以来、牟呂港の名声は次第に世に高まり、前途多望な良港となった。」



▶ 牟呂の教育百年のあゆみから

 ・二号のマスガタと書かれているが、桝形の北が二号堤防であることから、この表現となっている

 ・市場港に旅館などが多くあったが、桝形の牟呂港が主流になったので桝形にも旅館ができた


▶ 昭和10年、産業の豊橋より

 ・赤枠内に有るよう「柳生川運河があり河口に牟呂港・・・」とある

 ・柳生川運河の河口が桝形である


▶ 昭和28年の台風13号による堤防決壊と損壊の状況

 ・柳生川の河口が桝形(旧牟呂港)で、台風13号では数カ所で堤防決壊とあります 

神野新田開拓百年記念誌より


▶ 昭和28年の台風13号による桝形の堤防決壊

 ・赤矢印の部分が桝形の決壊場所

 ・写真は圓龍寺の三代住職によるものです


▶ 桝形に関する画像