▶ 入植当初の藁小屋の絵は実際の風景を描いたと思われる
・うだつ小屋とは、絵のごとく竹の骨組みに藁で屋根をかぶせただけ小屋のことで、風の強いと朝起きると
布団の上が真っ白になるほど砂が積もっていたとのこと
・塩が抜ける数年間は草も生えないので葉物野菜も採れず、煮るものが無いので生味噌をおかずにした
・道の奥の山が田原の蔵王辺りと右が姫島に見えるので、検証したら本物とと確信した
書籍「神野新田」135ページから
▶ 地図(左が明治33年の最古の神野新田、右が大正6年頃)
・左から:県道393号線(みなと大通り)の北側の道路に家が集中、サノ割と八軒家はなく、三郷から牟呂
村へは牟呂中横の道はまだ無く、明治新田から明治橋で大西、牟呂用水最終樋門から市場の2ルートのみ
・右から:神野新田と牟呂を結ぶ道路は県道393号線の北側の道路のみ、牟呂中横の道路はこの時点でも無い
・県道393号線の北側の道路は大西と市場に最短でもあり、メインに道路にするつもりだったと考えられ
中道橋を作り牟呂への3つ目のルートとしたと考えられる
▶ メイン道路から海方向を見たらどうなるか
・神野新田の道路は水平直角の基準が、五郷は二十間川、三郷は明治新田、二回は柳生川堤防
・五郷と二回は道路の延長奥側(紫の線)に絵の様なアングルで山や島は見えない、見えるのは三郷のみ
・県道393号の北の道路から海の方(青い専)を見たら、両側の家や堤防向こうの山が絵と同じになる
▶ 現在はどう見えるか(グーグルマップのストリートビュー)
・埋め立て地の建造物が邪魔で上の緑線(22番観音)でやっと蔵王や姫島が見える
・だいぶ右からなので絵とは違いますが、絵の山は蔵王や姫島ですよね
▶ もう少し時代が新しくなった頃の住居
・2022.11.15
・野菜が採れる位に塩が抜けてきた頃、家毎の井戸を奨励するのが大正12年から
・昭和62年、牟呂小学校発行「むろ」129ページより(色付けしました)