服部長七(人造石)
服部長七はコンクリートが普及する前に「たたき」を使い堅固な堤防や樋門を工事した。 明治政府高官にも認められ「人造石」として日本のみならず台湾でも工事をしている。 神野新田も全面的に「人造石」が使われたことにより、長期間に亘り浸水から守られた。

神野新田開拓百年記念誌より

今に残る人造石工法

 神野新田築堤の成功の一因は、服部長七が「たたき」(叩き・三和土)技術を土木工事に適用して確立した人造石工法の採用にあった。今は産業遺産となったこの工法は、セメント工法が普及するまでの一時の間に合わせではなく、かなり長期にわたって本格的に採用され、近代日本の産業基盤の形成に重要な役割を果たしてきたことが、


最近わかった。「日立」(技術史の旅、飯塚一雄著1981年11月・12月「服部長七と人造石」、1991年4月「人造石」)および「あいちの産業遺産を歩く」(昭和63年中日新聞本社刊)によれば、次の通りである。

 「たたき」(叩き・三和土)は消石灰とマサ(風化花崗岩)を混ぜて水で練り、よくたたき締めて硬化させるもので、土間、流し、井戸側などを造るのに広く使われた。

 日本では、明治8年からボルトランドセメントの生産が始まったが、その工事への普及は意外に遅く、ようやく明治30年代後半になってからセメントが諸工事に広く使われ始めた。人造石工法は、明治初期からこのころまで、産業近代化のための各種土木工事に用いられ、重要な役割を担ったのである。

 人造石工法の遺構は、「三州たたき」の地元・愛知県には、神野新田や牟呂用水のほかに、明治用水旧頭首工、明治用水葭池樋門、庄内用水元杁樋門、明治29年に始まった名古屋港第一期工事の護岸の一部等が残り、岐阜県には長良川支流五六川閘門、三重県には四日市旧港の防波堤や突堤がある。このうち庄内用水元杁樋門と五六川閘門は、服部長七の請負ではない。このほか、広島県の宇品港、愛媛県の三津浜港、大可賀新田、今治市大浜魚港、鳥取市の外港賀露港、佐渡相川町、明治14年ころ施工した横浜関内居留地下水道汚水マス、熱海市水源池などにみられるという。

 服部長七は晩年、岡崎の岩津天神社の神主になった。現在、岩津天神社は(合格祈願で賑わっている。岡崎市は、昭和36年7月1日に岡崎市名誉市民の称号を 贈った。



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 岩津天満宮の服部長七物語   1840年~1919年

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 服部長七 ウィキペデア 

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▶ 服部長七の東京の店(服部組の旗)


▶ 東京日本橋の服部組本店(明治10年代)

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▶ 大正十三年皇太子御成婚贈位内申事蹟書九


▶ 碧南市教育委員会のパンフレット






写真


服部長七の人となりとエピソード

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日本石灰協会から

 ・服部組の番頭格だった都築紋三(挙母町)の服部組の旗

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日本石灰協会から

環境分析研究所から


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