毛利新田譲渡契約書
毛利新田は山口の第百十銀行の融資事業として、毛利祥久の名義で開拓が始まりました。そのため通称で毛利新田と呼ばれたが、正式名は豊橋の旧名の吉田から「吉田新田」と名付けられました。 下の毛利新田の地図は通称名もついていない時代の当初の物で、三河新田と書かれている。 毛利新田を初代神野金之助に譲渡した時の情報です。

 吉田新田(毛利新田)は開拓をあきらめた時に、名義を責任者を毛利祥久から桑原為善に変更した。

 保証人の岩本賞壽は元愛知県庁土木課(課長職まで務めたよう)の職員であったが、退職していた。

 ・1893年(明治26年)4月10日 約定書の取り交わし

 ・1893年(明治26年)4月14日 譲渡証券の日付(作成日)

 ・1893年(明治26年)4月15日 譲渡証券の締結


▶ 毛利新田の地図


▶ 売渡證券


▶ 吉田新田(毛利班田)の字割と神野新田の字割

 ・吉田新田の字割を割の面積から推理してみました

 ・下の左の地図が三村の都の関係を示しており、牟呂・大崎・磯辺にまたがってます

 ・下の右の地図が神野新田の字との対応表ですが、吉田新田の字割を参考にして神野新田の字割の順序を

  付けていったと考える(吉田新田の字の面積からも大体あっているよう)


▶ 吉田新田(毛利班田)譲渡日の出来事を音声動画にしました

 ・二回新田の樋門が壊れて浸水したとあるが、「神野新田紀事」には記載が無い

 ・二回新田が譲渡日まで無事で残っていたなら、事前下見時の状況で書かれているはずだし、金平さんが

  金之助に無謀だから計画断念するようには言わなかったはずと思ってします