第二次大戦中の自作農創設計画

神野新田開拓百年記念誌より

第二次大戦中の自作農創設計画

 

 第二次大戦中の自作農創設計画については、神野新田土地農業協同組合発行「神野新田」にくわしいが、「神野新田土地分譲規定」および「不動産売買契約證書」は、本計画の証拠の一つである。本計画の時期は、「不動産売買契約證書」に昭和15年および昭和16年の年号があるので、その頃と思われる。しかし「そのころは、農民に正常な価格でこれを購入するだけの資力がなく、且つ小作人の間の遠慮もあって、この時には、新田全部で一町歩程度しか購入されなかったのである」(「神野新田」)という。自作農創設が初代金之助の意志であったことは二人会」が物語っているが、その意志を二代神野金之助、富田重助重信、神野三郎らが継承していたことを、本計画は示す。同時に、第二次大戦後の農地解放が神野新田においては、いち早く実行された理由の説明でもある。

 なお、「不動産売買契約語書」第四条に、昭和16年から租税公課が賦課されることが記されているが、これは毛利新田当時の明治23年(1890)より向う50年間の租税免除期間が昭和15年で満了となり、昭和16年より地租が課税されることを示しているのである。また、第五条に、当時耕地整理中であり、それが昭和15年末頃完了の予定のため所有権移転登記はその後になる旨規定されているが、別項に述べるように、耕地整理の完了は、二回地区が昭和25年(1950) 三郷および五郷地区が昭和27年にようやく完了し、所有権移転登記が可能となったのであった。

 なお、「神野新田土地分譲規定」の三に、新田海岸堤防修繕費および悪水樋管雑持費として一反步当り年30銭の支払いが規定されているように、毛利新田以来道路・用水・堤防・汐除の一部などは国有財産であったが、実際には、堤防や樋門の維持管理には地主は多額の負担をして自衛していたことがわかるのである。 

 第二次大戦中の自作農創設計画については、神野新田土地農業協同組合発行「神野新田」にくわしいが、「神野新田土地分譲規定」および「不動産売買契約證書」は、本計画の証拠の一つである。本計画の時期は、「不動産売買契約證書」に昭和15年および昭和16年の年号があるので、その頃と思われる。しかし「そのころは、農民に正常な価格でこれを購入するだけの資力がなく、且つ小作人の間の遠慮もあって、この時には、新田全部で一町歩程度しか購入されなかったのである」(「神野新田」)という。自作農創設が初代金之助の意志であったことは二人会」が物語っているが、その意志を二代神野金之助、富田重助重信、神野三郎らが継承していたことを、本計画は示す。同時に、第二次大戦後の農地解放が神野新田においては、いち早く実行された理由の説明でもある。

 なお、「不動産売買契約語書」第四条に、昭和16年から租税公課が賦課されることが記されているが、これは毛利新田当時の明治23年(1890)より向う50年間の租税免除期間が昭和15年で満了となり、昭和16年より地租が課税されることを示しているのである。また、第五条に、当時耕地整理中であり、それが昭和15年末頃完了の予定のため所有権移転登記はその後になる旨規定されているが、別項に述べるように、耕地整理の完了は、二回地区が昭和25年(1950) 三郷および五郷地区が昭和27年にようやく完了し、所有権移転登記が可能となったのであった。

 なお、「神野新田土地分譲規定」の三に、新田海岸堤防修繕費および悪水樋管雑持費として一反步当り年30銭の支払いが規定されているように、毛利新田以来道路・用水・堤防・汐除の一部などは国有財産であったが、実際には、堤防や樋門の維持管理には地主は多額の負担をして自衛していたことがわかるのである。