神野新田開拓百年記念誌の「耕地整理」

耕地整理

 

 新田は開墾の当初、田一筆を1町2反歩と定め、60間の左右に3尺の道路を開き、その前後に用水路を設け、水路の両堤防に幅員6尺ないし9尺の道路を作って利用したが、元来が海面埋立地であるから、塩分の除去が容易でなく、悪水の停滞も著しくて、作物を害することは明らかであるが、浚渫費が巨額に上るところから、新田全面積の耕地整理を断行することになった。耕地整理は、耕地整理法に基づいて施工された。全耕地を3区に分け、二回地区は神野新田耕地整理地区とし明治41年(1908)12月25日に施工許可(予定総面積188町7反9畝14歩、予算64,388円65銭)、三郷地区および五郷地区は神野新田西部耕地整理地区(第1区は五郷地区、第2区は三郷地区)とし大正2年(1913)3月22日施工許可(予定総面積815町6歩、予算75,814円30銭)され、何 れも個人施行で、施行人は神野富田殖産会社であった。施工は小作者の救済を兼ね、豊作の年には事業は縮小され、凶作減収の年には増拡され、農作の豊凶によって事業の伸縮を自在に行った。

 二回地区の工事は、道路・用排水路に加えて、西端部をさらに掘下げて耕地に運搬し、東部洪積台地より土を耕地に搬入、耕地塩分除去とともに護岸内側に養鰻池を拡大した。大正元年6月までの二回地区の総経費は64,141円50銭といわれる。引続き施工された三号五号地区の大正7年までの総経費は75,814円といわれた。

 この耕地整理は、当時としては最も先進的で、全国からの視察者が多かった。大正年間になって、東京・渋谷駅頭の忠犬ハチ公の飼主だった東京帝大農学部上野英三郎教授も学生実習指導のため来田したといわれる。昭和5年に至るまでの成績は、整理反別607町1反余で、予定総面積の約6割を終え、この工事総額およそ16万円の巨額を要したという。

 この耕地整理工事は、昭和7年ころには大体完了し、鍬下年期の期限である昭和15年(1940)末までには、すべての事務手続きも完了する予定であったが、延期されて、完了したのは、農地解放後数年を経てからであった。

 なお、この耕地整理のとき、3反刈り(60間×15間=900坪)の区割りが実施されたが、これは現在も推奨されている区割りで、先見の明があったと、現在の神野新田の幹部が語っていることは注目される。

 「100回運んで2銭」「養魚の土運びに、ワシが小学校五年のとき、おじいさんに小さなモッコを作ってもらって、働きに行った。1回担って2毛、10回で2厘、100回運んで2銭。高さ20メートルか30メートルの山へかつぎ上げるのだが、粘土がツルツルすべってノン。負けぎらいだったので一生 懸命で、晩までに11銭稼いでノン。ウチへ入るなり倒 れちゃった。お酒が1升10銭、お父さんの酒を1升買っても1銭余った。つらかったノン」(藤城藤一さんの回想)

 写真に土を盛ったトロッコを人手で押している光景が 写っている。今日と違って、ベルトコンベアもトラクターもない時代、トラックはあっても高値の花、人力が最も安い時代であった。「養魚池を作るため掘った土はトロッコで運んだ。私も大正7、8年ごろ、三郷、四郷の広い養魚池で元気な若者12、3人と一緒に働いた。土は1キロメートルくらい先の低い土地へ運んだ。西風の強い日は、ムシロ一枚くらいの布を帆のように立てると、人が乗ってもトロッコが飛ぶように走った。1日に12台 運んで65銭貰って嬉しかった」と藤城藤一さんは回想する。

 今ではホースを突込みポンプのスイッチを押すだけの水汲み作業も、大正初め頃は人力だった。写真は大正2年撮影の養魚池の水替え作業で、働き盛りの若者が足で水車を廻した。