開拓三十年祝賀式

神野三郎伝から、記事を音声化した動画

主催した神野新田を管理している「神富殖産株式会社」の出席者は、 社長・四代目富田重助(51歳)、副社長・二代目神野金之助(30歳)、取締役・神野三郎(48歳)であった。

 大正12年(1923)4月16日午前10時より、圓龍寺横手広場に設けられた天幕内の式場において「神野新田」開拓30年祝賀式が、厳粛な中にも和やかに挙行せられた。 唯一抹の寂寥は、「神野新田」開拓の父とも呼ぶべき初代神野金之助が、その前年に当る大正11年(1922)2月に長逝せられて、今日のこの式場にその姿の見出されないことであった。壇上に飾られた遺像は、生前そのままの温容をもって、820余名の来会者を歓迎するがごとくであった。当日の「式次第」および「記録」によれば、「神富殖産株式会社取締役神野三郎が開会の辞を述べ、 同社長富田重助・同副社長神野金之助(二代) 両人が、


式台に立って小作人の年功表彰式を挙げた。而して30年間の居住者小野猶吉外11名に対して個々に、20年以上居住者伊藤宗太郎以下114名に対して総代久間富次郎に、又10年以上の居住者75名に対して総代真野軍次郎に、夫々表彰状に記念品を添えて贈与し、続いて孝子河辺甚之助・節婦山田きお両人に表彰状に金一封を添えて贈与した」ことが知られるのである。

 当日の式場にあって、風雪30年の歴史を顧み、しかも前年2月には「神野新田」に相携えて心血を傾注した岳父初代神野金之助を喪なった神野三郎の感慨は、蓋し測り知れないものがあったに相違ないのである。晩年の述懐の中にも、時折この日の追憶が洩らされていたのであった。右の「表彰式」の終了後、社長富田重助は、次の「式辞」を述べている。すなわち、

 式 辞

 

 今日ハ閣下貴神ヲ始メ当新田ニ関係ノ各位斯ク多数ノ方々ガ御多忙ノ御中、殊二御遠路ノ処御繰合ニ預リ、御来場ノ栄ヲ得マシタ事ハ、当会社ノ無上ノ光栄ト存ジマス。

 神野新田ガ明治26年着工シテ以来、永イ年月ノ間ニハ随分烈シイ風波モアリマシタガ、大イナル破損モナク今日ニ至リマシタ事ハ、全ク皆様方ノ厚イ御同情ト切ナル御後援ノ賜ト深ク感謝致シテ居リマス。

 然ルニ当年ハ開拓後30周年二当リマス故二、抑カ祝賀ノ意味ニオキマシテ、現二在住セラレル小作ノ方々ニ其年功ヲ表彰シ、且ツ其内ノ孝子節婦ヲ表彰スル式典ヲ挙ゲル事ニ致シマシタ。

 此際当新田ノ沿革ト現在経営ノ一班ヲ述ベテ式辞ニ換エタイト存ジマス。

不毛ノ土地ヲ開拓シテ生産物ノ増加ヲ策スル事ハ、国家存立ノ上二最モ必要ナ事業デアル事ハ論外ズル迄モアリマセンガ、其実行ノ至難デアリ、又投資ニ対スル報償ノ薄キトニヨリ、見ルベキ程ノ事業ハ至ツテ稀デアリマス。

 神富殖産株式会社ハ微力デハアリマスガ、夙ニ国家的事業ノ先駆者トナリマシテ、曩キニ三重県能褒野地方ノ原野ヲ開拓シテ、一大桑園ヲ作リ、又紀勢ノ国境ニアル桑木谷始メ、各所ニ植林事業ヲ始メマシタ。

 時恰カモ東三河ノ一大千潟地タル牟呂新田ガ長州ノ貴紳ニョリ、築堤開発セラレタニモ拘ラズ、数回破堤ノ災厄二遭遇シテ、一タビ耕転セラレタル青田モ再ビ倉海二変ジテ、遂ニ放棄セラレル場合ニナリマシタ。

 当時前社長神野金之助ハ此国家的事業ノ不成功ヲ見ルニ忍ビズ、一大決心ヲ致シマシテ、其跡ヲ譲り受ケ、色々研究ノ結果、従来ノ工事方法ヲ変エテ、明治26年6月工を起シ、爾来拮据経営漸ク29年ノ春4月、竣功ノ式ヲ挙グル事ニナリマシタ。

 即チ今ノ神野新田デアリマス。斯カル歴史ヲ有スル神野新田ハ、設計ノ変更ト多大ナル工費ニョリ、非常二堅牢ナル築堤が出来上リマシテ、大二人心ヲ安ンジ、小作人ノ如キ倍旧ノ定住者ヲ得マシタガ、先以テ精神的訓練ノ必要ナコトヲ感ジマシテ、第一二教育ノ普及ト宗教ニョル道徳ノ慰安ヲ与ヘヨウト思ヒマシテ、学校ト神社ト寺院ヲ建設致シ、是二依テ常二精神修養ヲ忘ラザル事ニ力メマシタ。

 同時二農事試験場ヲ設ケテ、此新開地二適合スル米麦ノ品種・肥料ノ選択・二毛作・蔬菜物等アラユル生産物ノ調査研究ヲナサシメ、一面紫雲英・青刈大豆ノ栽培等ヲ奨励致シテオリマス。ナオ産米改良ノ方法トシテハ、小作米品評会・俵装品評会等ヲ催シテ、常ニ農業進歩ノ途ヲ策リツツアリマスガ、相当ノ成績ヲ挙ゲテ居リマス。

 小作人ノ金融ヲ円滑ニスルト同時二、地主小作間ノ意志ヲ疎通セシムルニハ、双方共同ノ組合事業ヲ起シテ、之ニ依ルノ適当ナ事ヲ認メマシテ、明治35年、其組織ヲシテ畜 牛ノ購入・農具ノ買入等ヲ致サセマシタ。

 コレヨリ先明治32年、産業組合法ノ発布ト共二神野新田信用組合ト改メマシテ、貯蓄・金融・其他色々ノ機関ト致シマシタガ、其後時世ノ進運二従ヒ生産物ノ共同販売・産業生計両用品ノ共同購入ハ勿論、両3年前ヨリハ米麦ノ精白・豆粕ノ粉砕工場ヲ設ケ、又農業倉庫ヲモ建設シテ、各種ノ利用事業ヲモ開始スル事ニ致シマシタ。

 神野新田ニ潅漑スル用水ハ、最初八名郡ノ一部ト当新田ノ為メニ開キマシタ。新田ノ用悪水路ヲ改善シマシタ故二、幾分ノ剰余水ガ出マシタノデ、豊橋附近ノ耕地四百余町歩ノ希望ニヨリマシテ明治34年ヨリコレヲ分水スル事ニナリマシタ。

 当新田ハ何分一千百町歩ノ広イ面積デアリマスカラ、自然耕地整理ノ必要ガ起リマシテ、之レガ前提ト致シマシテ、明治39年後魚事業引計画シ、爾来関聯シテ年ト共ニ長足ノ進歩ヲ致シ、現今デハ二百余町歩ノ養魚池ヲ得ルニ至リマシタ。

 其良好ナル成積ヲ一般ニ認メラレマシテ、此事業ガ附近二普及致シマシタ事ハ甚大ナル事ト信ジマ ス。

農商務省ニ於テハ、大正10年、此新田ノ一部二淡水養魚試験場ヲ設置セラレマシタノハ、全ク謂レナキ事デハナイト存ジマス。

 堤防地先海面ハ開拓以来、年々土砂ヲ打寄セ、千潮時ハ数百間ノ千潟ヲ見ルニ至り、為メニ数年前ヨリ海苔生産地ナルコトヲ発見シ、爾来、堤防外ノ海面ハ殆ンド是ガ生産地ノ尤モ適当ナル繁殖地ト化シテ、莫大ナル産額ヲ挙ルニ至リタルハ天与トハ申シナガラ、諸氏ノ熱誠ナル尽力ノ結果ト御同慶二存ジマス。

 斯ル施設ニ因リマシテ、今日迄、生産ノ増加、住民ノ精神修養等ハ勿論、一般的ノ公益二至ル迄、相当考慮シツツアリマスガ、特二地主小作間ノ融和ヲ図ルコトニ努メテ居リマスカラ、幸二小作人ノ方々モ共施設ノ趣旨ヲ了解セラレマシテ、昼夜農業ニ励ンデ居ラレル状態デアリマスノハ、誠二私共ノ喜ビニ堪ヘヌ次第デアリマス。

 欧洲戦争後、人心ノ動揺甚ダシク、動モスレバ小作争議ノ如キ所在ニ勃発スル事ヲ耳ニ致シマシテモ、当新田ノ小作人ヨリハ曽テ一人ノ物議ヲ申出ズル者モナク、却テ最近数年ヨリ当新田青年会トシテ、毎年初穂米ヲ私共へ寄贈セラルル様ニナリマシタ。是等ノ美挙ハ全ク地主・小作人ノ親善融和ヲ表現スルモノト云ツテ宜シカラウト思ヒマス故、此機会ニ於テ特二青年各位ニ厚ク感謝スル次第デアリマス。

 併シナガラ世運ノ進歩ハ一刻モ止ミマセンノデ、況シテ一日モ安逸ヲ許シマセン時代デアルカラ、此度更ニ産業組合ノ経営トシテ、衛生保険ノ事業ヲ計画シマシテ、長生病院ヲ設立シ、一般住民ノ利用ハ勿論、附近農村ノ生命安固ニ資スル事二致シマス。既二本月一日ヨリ開院致シマシタカラ、近ク伝染病ニ対スル設備ヲモ完成スル筈デアリマス。

 現在経営ノ状況ハ以上述ベマシタ通リデアリマスガ、今後一層最善ナル施設ヲナス事ニ努メマスト共ニ、益々地主小作間ノ和合ヲ図り、永久二一般ノ模範トシテ恥カシカラヌ様、互ニ注意シテ有終ノ美ヲ奏スル様ニ致シタイト存ジマス。

 之ヲ以テ今日ノ式辞ト致シマス。 

                              大正12年4月16日   神富殖産株式会社 社長  富田重助

 当日の来賓の中より、初代神野金之助の義弟(夫人豊子の弟)鉄道大臣大木遠吉、愛知県農会幹事山崎延吉、渥美郡長根来長太、八名郡長水谷兼次郎が、それぞれ祝辞を述べ、受賞者総代金原富蔵の答案があり、最後に、二代神野金之助の閉会の辞によって、滞りなく式典は終了したのであった。

 次いで、圓龍寺本堂における祝宴に移ったが、来賓300余名の外は、総べて新田関係の人々であってその総数525名であり、その内訳は、新田内居住の小作農民261名、新田外居住の小作農民264名であった。

 当日は、各戸に祝祭日のごとく国旗が掲げられ、山車、投餅、芝居、花火、梯子獅子などの余興も催されて、近郷近在からの見物人の来集に「神野新田」は、未曾有の雑沓と殷賑を告げたのであった。

 大正12年(1923)4月16日(月)圓龍寺東の広場に張られたテントで、神野新田開拓三十周年記念式典が催された。

神野新田土地農業協同組合発行「神野新田」では、だいたい大正10年(1921)ごろをもって、神野新田は一応の完成の域に入った、とみている。そして大正11年(1992)2月には、新田開拓の恩人初代神野金之助が急逝した。 神野新田の諸施設が完了し、新田内に移った二百数十の農民が、その経済生活の上に一応の安定を見出した矢先であった。また、「神野新田」は、その経営主体からみて四期に分け、最初の12年間を金之助直営時代、次の28年間を神富殖産株式会社時代、続く14年間を神野新田土地株式会社時代、昭和21年の自作農創設以降の時代、としている。 金之助直営時代、現地は神野悦三郎総支配のもとに神野清児、神野三郎らが担当していたが、神野悦三郎亡きあとは神野三郎(悦三郎は三重県に常駐、神野新田は三郎が当初から責任者)が自作 農創設まで現地責任者であった。 30年間の歴史は、人の汗と涙と泥まみれの連続だった。 最も困難な時期は、 明治38年(1905)ごろであったと「神野新田」は伝えている。 すなわち「この頃、神野新田には一つの危機が襲いつつあった。 生活の苦しさに喘ぐ農民は、村を捨てて北海道その他へ転出し、他面木曾川よりの大量の移民があって、農民の社会的な転出・転入は激しかった。 生活の苦しさを加増したものに日露争があった」。 こうした困難をのりこえた三十周年式典であった。 このときの富田重助、神富殖産株式会社社長の式辞は、国家的事業としての神野新田建設の動機、教育と宗教、農事奨励、信用組合、年呂用水,養魚、海苔養殖、病院建設、地主と小作人の和合,などに及び、神野新田の30年の 歷史を簡潔にまとめたものであった。

   神野新田開拓百年記念誌から