神野新田開拓百年記念誌より

初めに用水路計画ありき

 神野新田に先だつ「毛利新田」の着工は、明治21年(1888)4月15日であるが、牟呂用水の着工は、その前年の明治20年(1887)11月で5ヵ月早い。両者が企画されたいきさつをみても、用水路計画の方が早かった。

 すなわち、豊川の中流地域にある旧八名郡賀茂村(豊橋市賀茂町)・金沢村(一宮町金沢)・八名井村(新城市八名井)の地域は、しばしば旱害に苦しんでいた。これを解決すべく、明治17年(1884)豊川からの引水を計画、同20年(1887)愛知県庁に出願し


4月着工した。八名井村大字一鍬田(新城市一鍬田に堰堤を設け、一鍬田から2里余りの水路を開削しようとするものであった。地元農民の工費は不足し、しばしば愛知県当局に補助金を出願したが困難であった。7月にようやく竣工し、用水は田にみなぎったが、その喜びも束の間、その年の9月の暴風雨で堰堤も水路も大被害を受け、人々は茫然自失、復興をはかる勇気も出なかった。

 愛知県の土木課長岩本賞寿は、4月着工以来調査を重ね、この水路を下流まで延長すると概略7・8万円かかるが、牟呂地先に一千町歩の新田を作り、熟田一千町歩を加えれば、一反につき約四円となり、負担可能との結 論を得ていた。このときの岩本の脳裏には、或いは、54年前の天保4年(1833)の幕府の計画および吉田藩士福島献吉の六条沖大新田計画および一鍬田~吉田龍祐寺間用水計画と測量調花実施の事実が浮かんでいたのかもしれない。その意味では「始めに天保の計画ありき」といえる。岩本の脳裏に「毛利新田」の計画が描かれていたことは確実で、約半年後、これを実現する金主として毛利祥久があらわれたのである。

 愛知県知事勝間田稔は、毛利祥久に、この破壊された用水路を補強して牟呂地内に延長し、開発新田の田水に利用することをすすめ、毛利も、その必要を確認した。 勝間田稔も岩本賞寿も旧山口藩の出身で、旧藩老毛利祥久(1860一1941が士族の出身の還禄金で設立した第百十国立銀行(通称赤間関銀行)の資金の有利な事業として、牟呂・磯辺の寄洲開拓をすすめ、県の援助を約束、毛利も乗り気になって毛利新田開発の計画が進んでいったのであった。こうして、新田にさきがけて牟呂用水工事が進められることになったのであり、再三の破堤で毛利祥久が撤退したのち、これを引き継いだ初代神野金之助によって牟呂用水も新田も完成したのであった。

 以上は、牟呂用水着工のあらましだが、その建設の過程には、関係者が血涙をしぼった苦心があった。その様子を「牟呂用水普通水利組合誌(昭和27年牟呂用水普通水利組合発行)および「100年の歩み」(昭和63年牟呂用水土地改良区発行)より摘記する。

 明治17年の盛夏の頃、連日の旱天続きで苦しむ賀茂、金沢、八名井の三ヵ村民は、豊川より引水すべく決意を固めた。まず、竹尾彦九郎ら28名の委員を選び、測量、設計など計画をすすめた。水源は、八名井村大字一鎌田字西浦の海倉(かいくら)と三の瀧との中間に、豊川を横断する高さ六尺余、長さ約120間の堰堤を築いて導水し、水路には、宇利川の横断伏越のほか7ヵ所に 大樋管を設け、賀茂村地内間川には堰堤を築く、という計画であった。明治20年2月、愛知県に出願、同年4月着工した。しかし、用水路敷地買上げや吉祥山麓の巨厳破砕・宇利川伏越の難工事などの障害が続出して工事は捗らず、委員有志は東奔西走、しばしば私財を投出し、一途に工事の進捗に努力し、同年7月漸く工事を終えた。その苦労を「多大の工費を負担する余力がなくなり、家運傾いて他に融通を求める方法もなく委員に訴える者、有志にすがる者、紛争を持ち出す者等が続々として出たけれども、委員有志は不撓不屈の精神を以て、自己の資産も顧みず、正義公平に百方論示、愛撫に盡くして和解し、通水するに至った」と書いている。

 通水の喜びも束の間、その年の9月の暴風雨で大被害を受けたが、その後毛利祥久と協定して工事が再開された経緯は上述の通りである。殆ど大破し、流失家屋まであって、用水を復旧する余力はなかった。しかし、そのまま放任するときは往時以上の旱害を免れないので、毛利祥久の後を引継いだ初代神野金之助と修繕を協議した。神野は新田建設中は灌漑の用がないので延期を希望し、結局その年の修築に限り契約以外に工費の幾分を三村で負担することの約束をし、一時の急を凌いだ。しかし、その年の9月またまた大洪水のため、豊川の堰堤は破壊され、修築の必要に迫られたので、賀茂村以下三ヵ村は神野と契約を結び、明治27年(1894)3月改築工事に着手し、同年中に完成、ここに始めて三ヶ村民はその宿願を達した。これ以後の経過は「神野新田」(昭和27年神野新田土地農業協同組合発行)に詳しい。

 牟呂用水は、賀茂・金沢・八名井三村および神野新田にとって不可欠の経営資源であったが、その分水を受けた牟呂吉田村および豊橋市大字花田の地域内443町2反4畝の増収著しいものがあった。分水前の明治33年(1900)の一反当り一石六斗が明治42年には二石三斗と七斗の増加、一石15円と46,540円の増収となり「新田用水の及ぼす関係亦た大なりと謂ふ可し」「神野新田の経営」明治43年3月愛知県渥美郡農会)といわれた。なお、分水工事は明治34年より36年に施工され「幹渠延長3里2町44間、支渠延長12里3町8間、これが要敷地合計12町4反5畝歩、この工費総額金67,512円」であった。

 

 牟呂発電所跡

 牟呂町大西の牛呂用水にレンガ造りの樋門跡が残っている。これは、明治27年に三浦碧水、福谷元次らが発起人となって設立された豊橋電灯株式会社が、その翌年に作った水力・火力併用の発電所の遺構で、愛知県では最初の水力発電所であったといわれる。牟呂発電所の発電出力は15キロワットで、16燭光(その明るさは現在の20ワットの蛍光灯の約9分の1の電球を600灯ともし、 当時の豊橋町(主として陸軍十八連隊)に電気を供給した。以前は、樋門のほかに導水路跡、発電所跡なども残っていたが、牟呂用水改修工事や道路工事で撤去された。